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経営の革新は暗黙知による!
経営の革新は暗黙知による!
― 形式知と暗黙知について ―<私の学歴>- 結論から言って、池水はエリートにはなったことがありません。
- 高校は実践商業(稲置繁雄=星稜高校と大学の創始者でもある)ですから。進学校じゃないわネ。一流校でもないわネ。
よく言うと@こだわりが無い。A見栄を張らない。 悪く言うと@執念が無い。Aすぐ感情的になってしまい、元に戻らない。といった人が多かった。 無論、二水とか桜ヶ丘の受験に失敗した人が上位を占めていたから、形式知としてのバカばかりではなかった。 ※ 形式知 = 誰もが前提が同じならば同じ答えになる世界。社会としての答がある世界のことです。 - 高校の先生はおおらかな人が多く、勉強(=形式知)ばかりが能じゃあない−期末試験もイラン。稲置校長とやり合ったという先生もいて、居なくなったと思ったら、ヒゲ校長と衝突したというハナシ。
- 私も実践の生徒の1人であったけれども、三年生になる時、自分の知識の無さがナサケなくなった。夜中に目が覚めました。
大学に行こうと思い、両親に関東か関西の私学にやってくれといって土下座しました。それで、3年生のときは3分の2を休んで独学しました。さすがにオヤジには何度か電話があったらしい。
- 独学ですから。わからない時は職員室へ行きます。
「先生、傍線を引いてある文章中、コレは何だ?−はどういうふうに解答を見つければ良いがカネ?」森先生いわく。「ワシもわからん。文章ちゅうもんは何回でも読み直す。そうすると、解答の方から自分に近づいてくるもんじゃあ。わかるまで何回でも読む。それだけや。」 目からウロコが落ちましてネ。私は求めていたんです。形式知を。今から思うと、あのとき私は暗黙知の真髄を教わっていた。そ〜だ。暗黙知は向こうからやってくるのだ。人間の勉強は形式知を追っかけているうちはまだまだヒヨコだな。
- 今、ルールを遵守する税理士業(=形式知が多い)に加え、コンサルタント業(=暗黙知が多い)もしています。
今になって、実践商業で習った形式知が自分の基礎を支えている基礎になっていたり、森先生から教えていただいた暗黙知が精神的支えになっていることを有り難く思っています。 ※暗黙知 =自分だけの潜在意識や体験に裏打ちされた確信のことです。- もしもこの文を実践商業の同窓生が見ていたら。私はジッセンはすばらしい学校だった、と思っている。世間では三流校か五流校と言われていたかも知れない。それがなんじゃあ。今のハシリの学校だったと言える。
- それで経営の改革についてですが。
改善でも改革でも、自分の心をニュートラル(車のギアを一度はずして、自在にした状態)にすべきなんだなあと、最近になってしみじみと思うようになりました。
- 10社に8社のケースは、経営者がニュートラルになる気持ちが無い。自分はOK。従業員がNG。それで、従業員を説得してくれ〜。これでは、会社ぐるみの改革はできません。
- ソクラテスが「汝、自身を知れ」とか親鸞が「惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃」とか言っているのは、そういうことだったのかと思うに至って、こりゃあ大変な難事業だったワイと頭をかいている次第です。(多分、私の説明不足になる。意味は、心は、ニュートラルに還れるフットワークを持つこと、これが経営の基本です。)
☆ ソクラテス「汝、自身を知れ」 亀井勝一郎(文化評論家)は、「自分が無知であることを知れ」と表現しています。たとえば自分が、政治家だからと言っても、音楽にも通じているかは別の事である。人は、一つの得意があると、他の分野も得意であるとして、ウヌボレル傾向がある。何事にも謙虚になって耳を傾けろ。
☆ 惑染凡夫信心発 認知生死即涅槃 浄土真宗の正信念仏謁の中の一節。迷いの中にいるバカな私でも、心にこだわりがない状態になれば、生が良いとか死が悪いとかよりも、生があるから死があるといった、全体を相対的に捉え、しかもそれは他人の問題ではなくて、自分にとっての課題であると考えれば、その世界には苦しみなんか一つもない。生きていられるのが楽しくてしょうが無い極楽である。
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