萬固山天徳寺は曹洞宗で、佐竹氏十四代義人が夫人の源姫(天徳寺殿)の菩提のため常陸太田に開創した。十七代義舜のときに菩提所となり、秋田藩主初代義宣の国替えに伴って秋田に移された。総門・山門・本堂・書院・お霊屋は国指定重要文化財である。総門(写真)は天徳寺で最も古い建物である。
「天徳寺の歴史と佐竹氏(上巻・中巻・下巻)」佐竹資料館
奥州中村城相馬益胤の第三子として生まれ、33歳で養子家督相続し第12代藩主となる。戊辰戦争では、奥羽諸藩中ただ一藩勤王派として戦い、苦悩の時代を過ごした。60歳で没。
「最後の藩主」土居輝雄(東洋書院)
「秋田藩の戊辰戦争」片岡栄治郎(秋田文化出版)
「秋田の維新史」吉田昭治(秋田文化出版社)
「秋田の戊辰戦争夜話」吉田昭治(岩苔庵)
「遠山規方・秋田遊撃隊戦記稿」吉田昭治(岩苔庵)
千秋公園
現在の千秋公園は旧秋田藩主佐竹氏の十二代約270年の間、居城とした久保田 城跡である。造園家長岡安平が日本庭園として設計した。写真は表門。
「佐竹氏と久保田城 んだんだ文庫」渡部景一(無明舎出版)
「久保田城ものがたり」渡部景一(無明舎出版)
横手城は別名、朝倉城、韮城とも言われる。稲庭城主の小野寺輝道によって築か れた。関ヶ原の戦いによる国替えにより、佐竹氏の城代、戸村大学は戊辰戦争で仙台庄内軍の攻撃により落城、城士21人が討死した。戸村大学の父、十太夫は 奥羽列藩同盟に加判した理由で謹慎されていた。
「秋田・庄内戊辰戦争」郡義武(新人物往来社)
「政宗が殺せなかった男」古内泰生(現代書館)
秋田市の千秋公園にある弥高神社は、秋田が生んだ平田篤胤と佐藤信淵を祭神としている。九代藩主佐竹義和の「仰之彌高」に因る。本殿と拝殿は県指定文化財である。平田篤胤は荷田春満・賀茂真淵・本居宣長と共に国学四大人とされる。
佐藤信淵は大蔵常永・宮崎安貞と共に江戸三大農学者とされる。
平野政吉は秋田市の資産家政吉の三代目である。秋田市で最初にオートバイや自動車を乗り回したり、飛行機乗りになろうとし墜落したりしている。絵が好きで藤田の絵を集め、千秋公園の下あった別宅庭園内に藤田を長期滞在させ、畳64枚分もある「秋田の行事」をかかせる。秋田県立美術館・財団法人「平野政吉美術館」を開館し、藤田の作品は100点以上ある。
藤田嗣治(レオナルド・フジタ)は陸軍軍医総監の次男として生まれる。森鴎外の助言で東京美術学校に入学する。パリに渡りエコール・ド・パリの代表的画家として有名になる。裸婦の乳白色が絶賛を浴びる。ルノアール、ピカソ、モディリアニとも交流があり、パリでは美術界や社交界でも人気を集める。昭和9年平野政吉と出会い、昭和12年に15日間で大壁画「秋田の行事」を完成させる。第二次世界大戦に描いた戦争記録画の責任追及で日本を去りフランスに帰化。日本に一度も戻ることなく異国で81年の生涯を閉じる。
平成18年4月7日に東京国立近代美術館に生誕120年藤田嗣治展を見てきました。戦争画の迫力に驚きました。平野政吉美術館蔵が多かったのがうれしかった。
「平野政吉」渡部琴子(新潮社)
「随筆集 地を泳ぐ」藤田嗣治(平凡社ライブラリー)
「藤田嗣治(異邦人の生涯)」近藤史人(講談社)
「藤田嗣治とは誰か」矢内みどり(求龍堂)
「レオナルド藤田嗣治 覚書」藤田嗣隆(求龍堂)
「腕一本 巴里の横顔」藤田嗣治・近藤史人(講談社文芸文庫)
「もっと知りたい 藤田嗣治」林 洋子(東京美術)
「旅する画家 藤田嗣治」林 洋子(とんぼの本)
「藤田嗣治画集 巴里・異郷・追憶」林 洋子(小学館)
「藤田嗣治 作品をひらく」林 洋子(名古屋大学出版会)
「藤田嗣治 手しごとの家」林 洋子(集英社新書)
「藤田嗣治 本のしごと」林 洋子(集英社新書)
「藤田嗣治 手紙の森へ」林 洋子(集英社新書)